進捗

 

みっともない自分や格好つけたい自分を曝け出したいけど、それは本当に恥ずかしかったり怖かったりする。でも一度思い切って言ってみたら、案外ドン引きされなかったり、興味を持って面白がってもらえたりもする。もちろんドン引きされる可能性もあるのだけど。

 

親からは、昔は早く結婚して子供を作った方が良いと言われた。

最近は、あなたのタイミングで、あなたが良いと思った人と結婚しなさい、と言われる。

 

父は天理教の教職と、塾の開設者、また身寄りのない子供の里親という三足の草鞋を履いて、日々奮闘している。

一つめの職では、物理的、精神的に生活に恵まれなかった人の相談に親身になって寄り添い、郷里に基づいたアドバイスを送り、気持ちばかりの御供え物を受け取っている。

二つめの職では、学習能力の低い児童、生徒を対象とした新しい教育方法を売りとして、まだまだ駆け出しで受講生集めに苦労しつつも、朝から晩まで働いている。

三つめの職(?)は元々私たち息子が成人したら始めようと、母とともに考えていたらしい。

預かっている子供は重度のADHD/LDを抱えており、このまま無事大人になれるのか心配な感じだ。父は先述した仕事の方で忙しく、身の回りの世話は母の方が主に行なっていると思う。

 

母は元々主婦かつ、父の教職の補助をしているが、今は里子の世話がメイン(育成補助金は自治体から最低限もらえる)、他に塾の手伝い、市の民生委員として独居老人の見回りなどをやっているようである。しかしながら以前から視力がひどく低下しており、ついに自動車の運転を諦めたようだ。

それでも最近は徒歩でそれらの仕事をこなしているようであり、むしろ逆に健康になった、などとよく言っている。

 

世帯収入は私が子供の頃から微々たるもので、祖父の貯蓄や資産運用を駆使するなどして、なんとか生活費を工面し、2人の息子を世に送り出した。本当に立派だと思う。

 

かたや不肖長男。

家を出て早12年。大学時代をぬるぬると過ごし、悪あがきとハッタリで国家資格を取得。特に労せず職を得て、良き友人、先輩、後輩、同僚達にも恵まれ、音楽や競馬などを嗜みながら、都会の気風に染まって暮らす。

幾度か恋愛事象を体験するも、生活面での怠惰な性分を悟られたり、性格や家庭環境の不一致等を理由にしたりして、別離の結果を迎えており、未だ独身である。

 

恋愛事象の別離の原因として上記を挙げたが、詰まる所、自分の未熟さや臆病さが根本にあるだけだ。それは、成り立たなかった音楽活動であったり、安月給などと宣いながら流さるるままに働いてきた仕事であったりにも言えることだと思う。

もう若くもないと見られることもある年齢になり、何が変えられるか。性格的な部分は、変えられないことの方が、多いのかもしれない。

それに、まだモラトリアムの心地は、島に流されても、どこか抜けないままだ。

 

一度きりの人生、好きなこと、やりたいことをどんどんやるべき、という気風が世の中に蔓延っている。

しかし、好きなことややりたいことをやるだけでは、ほとんどの人は生活が成り立たない。

好きなことややりたいことが仕事と直結している人よりも、していない人の方が圧倒的に多いだろう。

もし全ての人が理想通りに、好きなことややりたいことを自由にできる世界が来たとしたら、それは今の世界の終わりなのではないかと私は考える。

好きなことややりたいことというのもパイの奪い合いであり、それを生業として、他者に重宝される人は、利益を得られるが、他者のニーズとマッチしない場合は、いわゆる仕入れ損の状態に陥ってしまう。それでも好きなことに対してのスキルは上がるかもしれないが、ニーズを得ている人に追いつけるかというと、全く新しい方法論、視点の違った方法論を編み出さない限りは絶対に追いつけないと思う(これからの時代、一度ニーズを得た人が急失速するというのは考えにくい。ニーズを得た人が慢心せずし精進していく例の方が増えている気がする)。

 

ただ、好きなことややりたいことを生業する「生産者」でなくても、余暇のうちでそれらをこなす事は十分に可能であって、好きなことややりたいことをやる「消費者」になることは誰だって可能だ。むしろ大多数の人は、その為に汗水流して働いている。私もその一部と考える。

では、今の暮らしを支える、元々は仕方なく労に就くこととなった仕事は本当にやりたくないことなのか、その辺りの自問を最近考えてみたが、これは意外にも「やりたくないこと」ではないが「やるべきこと」であり、社会のニーズを満たしているという面では誇れることである、と思うようになった。

ダービージョッキー」という競馬を題材とした漫画で、スランプに陥った主人公のジョッキーが先輩ジョッキーに諭される場面での、先輩ジョッキーの言葉で「本当のプロフェッショナルとは、人々を笑顔にできることなんじゃないかな」というのがある。

その言葉にとても感銘を受けて以来、社会の穴を埋める者としてのやりがいを少しずつ感じられるようになった気がしている。

今日も何人かの人を笑顔にするやりとりが出来た、という積み重ねが月に一度の給与となっていると考えると、今の仕事は満更でもないな、と。

 

なので、やりたいことをやろうぜ!とは私は言えないが、人を笑顔にしない仕事ってのは、実のところあまり無いと思うけど、もしそんな仕事をしている、そんな職場にいるあなたは早めに仕事を変えた方が良いよ、とは言える。

 

さて。

誰も見ていないと思うから取り留めもなく書いている。 

 

実際のところやりたいこととか夢とか意外と叶えてしまったから、今はなんだか仕事に身が入っているんじゃないか、と思うところもある。

それでももっと大きな夢は持ってそれに少しでも噛り付いていく方が人生としては素敵だなと思う。そんな夢が今はぼんやりしてたり眠る間に変わったりしているんだけど。

それはきっと、音楽や映画や本に兎に角触れまくったら、何か見えてくるような気がしている。貧に陥ってもそれらがあれば人生の彩りは褪せないはずだと。

 

いつか今さっき書いたことはもっと整理整頓した言葉で言えるようになりたいからついったーとかでも何度も同じことを書いてみようかと思う。

 

あー。最初に結婚がどうとか書いた。

宗教的に、子孫を繋げていくというのは人類の義務と考えているであろう両親なので、親に孫の顔を早く見せてあげたいとは思うけど。

私は2年後くらいに実家に帰る算段でいる。出来れば川崎の街とかすごく居心地が良いんだけど、まあ日本にいる限りは何処にいても住めば都と思うようにもなっている。今は車も持ってるし。

あと2年の間に結婚とか、具体的には考えられないなあ。そういう状況に至れるようにするには、将来天理教を継ぐとか継がないとか、奨学金返しきるとか、グレーゾーンをハッキリさせるのがベストなんだろうけど、なかなか急には、という所。

継がない気持ちの方が大きいのは、私にとっての宗教では、周りの人を笑顔には出来ないと考えるからである。父にとっては笑顔にできているから、仕事として今も少しは成り立っているが、私にはそこまで宗教に対しての気概や信仰心はない。

考え方とかは、素晴らしいと思うし、熱心に活動してる人は、それはそれで感心するところもあるけど、布教活動というのを信心深くない人がなあなあでやると「ナニヲヤッテイルンダロウボクハ」と心が機械のようになっていくから、気をつけろ。

あと宗教も結局経済活動が無いと成り立たなくなってるという部分で本当に🖕( ´∀`)🖕寺とか神社とか教会とか、宗教施設見るのは好きだけどね。拝観料と多少の御供えは全然するけどさ、どの宗教がとは言わないけど893のみかじめ料みたいなシステムがあるらしく、これは本当に🖕🖕🖕だよ。

 

ここまで書いて結論はぼんやり見えてるけど行動起こせないって情けないな、と思うけど、機が熟しやすくなるように発酵の度合いをいろんな手段でまずは高めていこうね、って所かね。